疑惑の連鎖を断つこと 〜ダウト あるカトリック学校で
2009-04-06


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相手の印象に合わせて自分の考えを修正するのではなく、
自分の考えに合わせて相手の印象を修正してしまうことの危険。
それは、相手を結果的に傷つけるのみならず、
自分と周囲さえも不幸にしてしまうことです。

もしかすると、フリン神父は他人に対して献身的で、
極度に良い人であり過ぎたために
周囲の誤解を受けやすい、生き難い人ではなかったのか。
もしかすると、周囲にとっても自分にとっても大事な人を失う、
取り返しのつかない過ちを犯したのではないか。
全ては自分が誤った相手の像を作りだしたことが発端。
それがなければ、新米教師の一言など、
一笑に伏して終わったかもしれない。
ラストで止めどなく流すアロイシス校長の涙を、
そういう意味であると信じたい。


作品から歴史的な考察や政治的な意味も論じることは可能ですが、
まず、全て根本は人間のコミュニケーションにあることから。
自分に不安を抱かせる原因は、
自分のほんの些細な誤解がきっかけで自分の心に作った、
相手を拒絶する壁であるのかもしれない。
そのために相手もまたあなたの態度に不安を感じ、
感じなくていい責任を感じて、いたずらに心を痛めているかもしれない。
怖いのは繊細な人間とストレートな人間は
そういう疑惑の連鎖に巻込まれやすいということ。

疑惑の霧で相手の良き心を見失わないように。
曇っているのは相手の心ではなく、
それを見る自分の目かもしれないのですから。

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