疑惑の連鎖を断つこと 〜ダウト あるカトリック学校で
2009-04-06


禺画像]
今年のアカデミー賞の受賞レースにも食い込んだ作品
「ダウト あるカトリック学校で」についてのこと。

<物語>
1964年のN.Y.、ブロンクスのあるカトリック学校。
かつて厳格であった教会も徐々に
自由と変革を求めようとする動きがあるなか、
この学校では校長であるシスター・アロイシスが
厳しい規律を守ろうとしていた。
ある日、新米教師のシスター・ジェイムズが、
この学校のただ一人の黒人生徒に対して、
フリン神父が親身になり過ぎていることを
アロイシスに洩らしたことから、疑惑が生まれる。
フリン神父は市民からの人望も厚いが、
新しい時代への変革派の考えをもっており、
何かとアロイシスとは不和が生じる関係にあった。
そして、神父と生徒が好ましくない関係にあると、
疑惑を確信へと変えていくのであった・・・。


証拠も証言もなく、状況から導く推測から
フリン神父への疑惑は、黒い霧の状態だったのが
徐々に確固たる自信を形成していく。
そこにはもちろん、アロイシスのフリン神父に対する、
相容れない感情が大きく影響していることになります。
嫌いだから、相手の考えも間違っている、
だから必ず間違った行為をするはずだ。

歴史の中でも裁判無しの拘禁など、
恣意的な判断で無実の人間に不幸をもたらした
権力に従った末端の人々の中にもあったであろうこと、
そして、我々も日頃の他者とのコミュニケーションにおいて
時折自覚しなければならない課題の一つであり、
人間の性であり、業ともいえます。

その罠に我々も陥る様にフリン神父のキャスティングは
実に用意周到、フィリップ・シーモア・ホフマンが演じます。
オスカー俳優だからの起用ではないことは明らかで、
変態を演じたら五本の指に入る俳優であるから。
そしてホフマンは、いかにもアブナイ役だけではなく、
一見すると普通の人に見えるけれど、奥に秘めた変態性を漂わせ、
でもやっぱり良い人なのかもしれないと思わせるという、
巧妙な演技が可能な点が超A級変態役俳優なのです。

「カポーティ」「M:i:III」「その土曜日、7時58分」、
近作でもその変態の幅は益々信頼おけるものに(?)。

・・・オスカー俳優を捕まえて変態という言葉を連発して
申し訳ございませんが、そういうホフマンが演じるからまた、
微笑みの裏に隠れた真実があるのではないかと、
やはり手放しで信頼することに躊躇してしまうのです。
しかも、渦中の生徒の母親から、そういう性質を持った子である
という涙ながらの告白までされては、アロイシスでなくとも、
間違いが行われたのではないかと不安が募るのは無理はない。


そしてフリン神父は遂にアロイシス校長によって、
学校を追放されることになります。
過去の経歴を調査し以前にも事件によって
学校を代わっていることを突き止めるに至り、
2度あることは3度あるの理論で確信は揺るがなくなった。

しかし、証拠が無いので一存で追放はできません。
神父は校長より格が上なので、その上に訴える必要がある。
そのために彼女は証拠を歪めるに至ります。
自分の行動は教会と学校を守る大義名分にあると信じ、
彼女は自分の感情を制御することができなくなり、
その為ならば神にも背くという矛盾の発言を繰り返します。
恐るべき疑惑の一念!


直感的な疑惑は、ときに自分や周囲の防御機能となります。
周囲に対して絶対の信頼を寄せるよりも、疑念を持つことから
心配や労わりが生まれ、危険の回避も行われ、
ストレートな人間よりも良い結果を得ることがあります。

ですが、自分の抱く疑惑に対しての疑惑を持つこともまた
忘れてはならない大事なストッパーです。
相手のことを理解する前から、自分の中でイメージを形作り過ぎ、

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